嵐のデビューまでの道のり|活動開始のきっかけ・転機を解説

出典:中日新聞

嵐のデビューまでの道のり|活動開始のきっかけ・転機を解説

嵐は、1999年11月3日に「A・RA・SHI」でCDデビューした5人組アイドルグループです。しかし、その出発点には、同じ夢を抱いた5人が一直線にデビューを目指したという説明だけでは収まらない経緯があります。家族の影響で音楽に触れた経験、オーディションへの応募、ジュニア時代の舞台やテレビ出演、別の進路を考えた時期など、それぞれの歩みが結成へとつながりました。この記事では、大野智、櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也、松本潤がどのように活動を始め、デビューを迎えたのかを詳しく解説します。長年の経歴全体を追うのではなく、芸能活動への入口から最初のCD発売、デビュー直後の変化までに焦点を絞り、嵐の原点をたどっていきます。

嵐の活動開始前の経歴

嵐が誕生する以前、5人はそれぞれ別の場所で育ち、異なる時期に芸能活動へ入りました。大野智は1980年11月26日、櫻井翔は1982年1月25日、相葉雅紀は1982年12月24日、二宮和也は1983年6月17日、松本潤は1983年8月30日生まれです。出身地は相葉が千葉県で、ほかの4人が東京都。全員が関東出身ですが、幼なじみや同じ学校の仲間として集まったグループではありません。最年長の大野と最年少の松本には約3歳の差があり、芸能活動を始めた時期にも違いがあります。当時のジャニーズ事務所に入ったのは、大野が1994年、櫻井が1995年、松本、二宮、相葉が1996年でした。つまり、グループ結成前に約3年から5年の活動期間があり、1999年に初めて人前へ出たわけではありません。嵐のデビューを理解するには、個人として芸能活動を始めた時期と、5人が同じ名前で活動し始めた時期を分けて見ることが出発点になります。

入所後の5人は、当時「ジャニーズJr.」と呼ばれた、CDデビュー前のタレントたちが活動する枠組みに所属しました。そこではダンスのレッスンに加え、先輩のコンサートや音楽番組、舞台などへの出演機会がありました。一般的な学校生活とは異なる場所で、年齢や経験の違う仲間、振付師、番組や公演のスタッフと関わることになります。自分の曲を持つ前に、ほかの人の作品に参加する立場で仕事を経験できる環境だったのです。現在の動画投稿やSNSで個人の作品を発信する方法とも異なり、嵐のメンバーの活動は、事務所のレッスンと出演の機会を通じて広がりました。ただし、この時点で5人が一つの固定グループとして育成されていたわけではありません。舞台を中心に経験を積む時期もあれば、テレビドラマや映画へ出演する機会もあり、活動場所や共演相手はそれぞれ違っていました。後の嵐だけを見ると一体感が先に印象に残りますが、その前には個別の経歴が存在します。グループ以前の歩みを振り返ると、5人が同じ技術や同じ経験だけを持って集まったのではないことがわかります。歌と踊りを軸にしながら、演技やトークにも取り組むグループへ進んだ背景には、こうした複数の現場での経験がありました。

嵐が音楽に興味を持ったきっかけ

嵐のメンバーが音楽に親しんだきっかけは、芸能事務所へ応募した理由と必ずしも同じではありません。家庭で流れていた音楽、きょうだいが見ていた映像、自分が関心を持ったジャンルなど、音楽との出会い方には違いがあります。大野智は、子どものころにマイケル・ジャクソンやマドンナなどの姿をまねて踊り、それを両親が喜んでくれたことを振り返っています。母親はディスコで踊ることが好きで、父親はドラムを演奏していたとも語っており、家庭に音楽や身体表現との接点がありました。本人が話した原点は、職業として成功することより、踊ることで身近な人が喜ぶ楽しさにあります。音を聴くことと、その音に合わせて身体を動かすことが、幼いころから結びついていたのです。後のダンスだけを見て技術の話に限定するより、最初は家族とのやり取りの中で表現を楽しんでいたと知ることで、その入口が具体的に見えてきます。

松本潤は、2歳上の姉が友人から借りてきたKinKi Kidsの映像や雑誌などを通じて、同世代より少し年上の人たちが歌って踊る姿に関心を持ちました。先輩の姿を見て、自分もその活動に参加してみたいと思ったことが、芸能界への興味につながっています。一方、櫻井翔は、中学3年生のころにヒップホップへの関心が深まったことをインタビューで語っています。日比谷野外音楽堂で行われたヒップホップのイベントが大きかったと振り返っており、アイドルの楽曲に触れることとは別に、ラップという表現への興味が育っていました。ここで、5人全員に同じ音楽的ルーツがあると考える必要はありません。相葉雅紀の応募にはテレビ番組への関心が関わり、二宮和也は家族が応募の機会をつくった人物です。音楽に興味を持つこと、芸能活動に参加すること、歌手としてデビューすることは、それぞれ別の段階でした。嵐の成り立ちから見えてくるのは、異なる関心を持つメンバーが、活動を続ける中で歌やダンスを共通の仕事にしていった姿です。踊る楽しさ、先輩への憧れ、言葉をリズムに乗せる面白さなど、入口の違いを知ると、グループの中に複数の表現が共存していることも理解しやすくなります。

嵐が活動を始めたきっかけ

音楽や芸能への関心を実際の活動へ変える機会となったのが、履歴書の送付やオーディション、レッスンへの参加でした。大野智は母親が履歴書を送ったことから事務所に入り、櫻井翔は自分で応募したと番組で話しています。松本潤も自分で履歴書を送り、その後に電話を受けてレッスンへ参加することになりました。全員が同じ日のオーディションで選ばれ、そのまま嵐として活動を始めたわけではありません。応募した時期も、応募を考えた人も、最初に参加した場も異なります。相葉雅紀の場合は、テレビ東京の「愛ラブSMAP!」でSMAPがバスケットボールをしていたことがきっかけでした。一緒にバスケットボールをしてみたいという思いから応募したと、本人が制作発表で明かしています。先輩の歌唱だけでなく、番組で楽しそうに活動する姿も、芸能界へ入る動機になっていたことがわかります。応募時の関心が、必ずしも歌手という職業だけに向いていなかった点は、嵐の出発点を知るうえで見逃せません。

二宮和也は、いとこが履歴書を送ったことからオーディションの案内を受け取りました。当日は野球の試合と重なり、本人は試合へ行くつもりでしたが、母親から参加を勧められています。母親が、人に評価してもらう経験には意味があると説き、さらに5,000円を渡すと提案したことを、二宮は後年の番組で語りました。本人にとって、その時点の目標は合格して歌手になることではなかったのです。それでも参加後にはレッスンへ呼ばれ、活動が続いていきました。二宮は、ジュニア時代に踊れなかった振り付けやできなかった動きができるようになることが楽しかったとも振り返っています。最初に応募した理由と、参加した後に続ける理由が変わった例といえるでしょう。この段階で起きた変化は、テレビを見る側から、練習し、出演する側へ移ったことです。先輩の姿に興味を持つだけでは経験できなかったレッスンや現場へ入り、仕事として歌やダンスに接するようになりました。家族の後押し、自分からの応募、番組への憧れという異なる入口は、ここで実際の活動につながります。ただし、入所はCDデビューの決定を意味しませんでした。その先には、グループが組まれるまでの出演経験と、それぞれの進路を考える時間が続いていたのです。

嵐のデビュー前の活動

嵐のデビュー前の活動では、1997年から1998年ごろの舞台や映像作品が重要です。1997年には、二宮和也、相葉雅紀、松本潤が生田斗真らと舞台「スタンド・バイ・ミー」に出演しました。大阪、名古屋、東京で上演された作品で、嵐が結成される前から、後に同じグループになる3人が一つの芝居をつくる経験を共有していました。同年、相葉と松本はドラマ「ぼくらの勇気 未満都市」に出演しています。KinKi Kidsの堂本光一と堂本剛が主演する作品で、先輩の仕事に参加しながら、自分の役を演じる機会を得ていました。これらは、バックダンサーとして曲を支える仕事とは異なります。決められた人物を演じ、共演者との会話や場面の流れを成立させる経験です。結成以前に共演歴があることは確認できますが、その作品の出演者が、そのまま嵐という固定グループになったわけではありません。共演で生まれた接点と、後のメンバー選定は分けて捉える必要があります。

大野智は1997年から1998年にかけて、京都の舞台「KYO TO KYO」に出演しました。東京でのテレビ出演とは違う場所で、舞台の歌やダンスを繰り返し披露する経験を積んでいます。一方、1998年4月29日には、相葉と松本が出演する映画「新宿少年探偵団」が公開されました。相葉は探偵を自称する少年の壮助、松本は秀才の謙太郎を演じ、少年たちが事件に挑む物語に参加しています。二宮も1998年のドラマ「天城越え」で少年時代の西浦多吉を演じ、同年の「あきまへんで!」にも出演しました。役柄を通じて視聴者へ人物を伝える仕事が、CD発売より前から経歴に含まれていたのです。また、1998年に始まった「8時だJ」のようなジュニアが出演する番組では、音楽以外の企画に取り組む姿も見せていました。こうして見ると、デビュー前の数年間は、ただ順番を待つ時間ではありません。舞台で身体を使う経験、映像作品で役を演じる経験、番組の企画に対応する経験が、それぞれに積み重なっていました。嵐として登場した時点ですでに5人が仕事の現場を知っていたことは、結成直後から歌番組とドラマの両方へ出演する活動を理解する土台になります。デビュー前の作品を見ることは、後の姿とは違う若い時期の表現を知る方法でもあります。

嵐が経験した大きな転機

デビュー前の大きな転機は、経験を積んだ先で、全員が同じ方向を目指していたわけではない中、5人組としての活動が決まったことです。二宮和也は、ジュニア時代に演劇の演出へ関心を持ち、1999年の初めには、その年の12月で事務所を辞める意向を伝えていたと語っています。本人にとって、レッスンで新しいことができるようになる楽しさと、CDデビューを目指す気持ちは別だったのです。また、二宮は、大野智や櫻井翔も当時、必ずしもデビューを目標の中心に置いていなかったと振り返っています。これは後年の本人による回想として捉えるべき話ですが、少なくとも全員が同じ夢だけを共有して準備していたという説明では、当時の状況を表せません。舞台やテレビを経験したことで、逆に別の仕事や進路に関心を持つこともありました。歌手になることが、活動を続けた先にある唯一の選択肢ではなかったのです。

そのような時期に、5人はハワイでグループとして紹介されることになりました。1999年9月15日、現地の船上で結成とデビューが発表され、ここから「嵐」という名前を共有します。当時は大野が18歳、櫻井が17歳、相葉、二宮、松本が16歳でした。会見では、世界に嵐を起こすという意味や、日本語の「あ」、アルファベットの「A」のように先頭を目指すというグループ名の考え方も紹介されました。準備された質問と回答を使って、会見の受け答えを練習したことも明かされています。ここで変わったのは、出演する作品や相手が変わるだけではなく、自分たちの名前で将来の活動を説明する立場になったことです。個人の進路について考えていた時期から、5人の予定や作品が社会へ発表される段階へ進みました。結成の瞬間に、全員の気持ちや関係性が完成していたとはいえません。それでも、同じ名前で仕事を受け、同じ楽曲を歌う機会が始まったことは、個々の経歴をグループの経歴へ変える節目でした。嵐の誕生は、長年一緒に活動したバンドがそのままCDを出したという形とは異なります。別々の経験と考えを持っていた5人が、結成を境に、これからの時間を共に積み重ねる立場へ変わったのです。デビュー前の迷いまで含めて見ることで、この転機の大きさが伝わります。

嵐がデビューにつながったきっかけ

嵐のCDデビューへ直接つながったのは、1999年のワールドカップバレーボールに関わる活動と、5人で歌う楽曲の制作でした。メンバーが集まった背景には、リハーサル室での出来事もあります。松本潤は、二宮和也と早めにリハーサル室へ行った際、バレーボールの練習に加わるよう声をかけられた経験を、後年の番組で語っています。その出来事が大会のイメージキャラクターに選ばれるきっかけになったという本人の説明です。ただし、これだけでメンバー全員の選定理由がわかるわけではありません。公表されたエピソードから確認できるのは、普段の活動場所での経験が、大会と結びついた仕事へつながったことです。嵐はバレーボールの選手としてではなく、大会を音楽やテレビ出演で盛り上げるグループとして登場しました。競技を応援する企画に、グループの結成と音楽活動が組み合わさっていたことが、デビューの具体的な背景です。

デビュー曲「A・RA・SHI」の制作過程も、その出発点を知る重要な手がかりです。この曲は、もともと別々に用意されていた「REACH OUT FOR MY DREAM」と「夢はSOSO」という2曲を組み合わせて生まれたと、メンバーが番組で明かしています。相葉はほかの4人より後に加わったため、元になった曲についての会話を知らなかったとも振り返っています。最初から現在の形の一曲と5人の体制が、同時に完成していたわけではないのです。表題曲の作詞はJ&T、作曲・編曲は馬飼野康二。メンバー全員による自作曲でデビューしたのではなく、制作者が用意した音楽を5人が歌い、踊る作品として形にしました。曲の中ではラップとメロディーが切り替わり、グループ名を含むサビが繰り返されます。新しく登場したグループの名前を、音楽と一緒に覚えられる構成です。大会を通じて広く聴かれる場があり、同時にグループを紹介する役割を持った楽曲ができたことで、CD発売へ向けた活動が具体化しました。デビューを決めた単独の理由を一つに絞るより、メンバーの選定、大会に関わる仕事、楽曲制作が重なった結果として見るほうが、確認できる経緯に沿っています。ジュニアとしての出演から、自分たちの歌を届ける立場へ進む条件が、ここで整っていったのです。

嵐のデビュー当時の活動

1999年秋、嵐はCD発売前からテレビを通じてグループの姿を見せました。10月には「ミュージックステーション」に出演して「A・RA・SHI」を披露し、同月にはフジテレビで「Vの嵐」が放送されています。「Vの嵐」は5人が出演する青春バレーボールドラマで、ワールドカップバレーボールの開幕へ向けた番組でした。競技に関する映像も組み込まれ、ドラマを見ることが大会への関心にもつながる構成です。メンバーと同じ名前の役が登場しますが、劇中の年齢や学年は設定であり、本人のプロフィールとは異なります。阿部寛ら俳優陣と共演しながら、視聴者が5人の顔と名前に触れる機会をつくりました。歌番組では歌声とダンス、ドラマでは表情や台詞を通してメンバーを知ることができます。結成直後から複数の番組に登場したことで、CDを購入する前にも嵐に触れられる活動になっていました。

11月3日には、ポニーキャニオンからシングル「A・RA・SHI」を発売しました。収録曲は表題曲と「明日に向かって」、それぞれのオリジナル・カラオケです。最初のCDが発売されたことで、テレビで見た歌を手元で繰り返し聴き、作品として持つことができるようになりました。オリコン週間シングルランキングでは初登場1位、初週売上は約55.7万枚を記録しています。これは発売直後の結果であり、長年の累計売上とは区別して理解したい数字です。同月に開催されたワールドカップバレーボールでは、楽曲とグループが大会に関わる放送を通じて届けられました。ここまでの流れを整理すると、グループを発表する会見、歌と姿を見せるテレビ出演、音楽作品としてのCD発売、競技大会との連動が短い期間に続いています。デビュー当時の嵐は、音楽だけを単独で発表する存在ではなく、5人の顔や名前を複数の方法で知ってもらう活動を同時に進めていました。一方、最初の売上が大きかったことは、その後の作品も同じように受け入れられる保証にはなりません。新しいグループとしての注目を、次の曲や公演へどうつなげるかという課題が、発売と同時に始まりました。1999年の秋は、準備してきた仕事が一度に表へ出た時期であると同時に、嵐が継続して作品を届ける活動へ踏み出した時期でもあります。

嵐のデビューがその後の活動に与えた影響

デビューがその後の嵐に与えた大きな変化は、5人が自分たちの楽曲を中心に活動を組み立てられるようになったことです。ジュニア時代には先輩のステージや出演作品ごとの仕事が中心でしたが、CD発売後は新曲を発表し、その曲を歌番組やコンサートで披露する流れが生まれました。2000年には初の単独コンサートを開催し、同年4月に「SUNRISE日本/HORIZON」、7月に「台風ジェネレーション -Typhoon Generation-」、11月に「感謝カンゲキ雨嵐」を発売しています。曲数が増えると、デビュー曲一曲だけでは示せなかった表情を、複数の作品の組み合わせで伝えられます。2001年1月には最初のアルバム「ARASHI No.1〜嵐は嵐を呼ぶ〜」も発売されました。単独公演とアルバムが加わったことで、短いテレビ出演とは異なる長さで、グループの音楽に触れてもらう機会ができたのです。デビューは、作品の数と届け方を自分たちの名義で積み上げる起点になりました。

一方で、初期の活動には試行錯誤もありました。2000年の3枚目のシングルは週間ランキングで1位とはならず、後年の番組では、その経験を振り返っています。デビュー時の注目を保つには、次の曲を出すだけでなく、5人の人物像や活動そのものを継続して知ってもらう必要がありました。2001年に始まった「真夜中の嵐」は、歌の披露以外の場で、ロケに取り組む姿やメンバーのやり取りを見せる番組でした。2002年には「a Day in Our Life」を発表し、櫻井翔が出演したドラマ「木更津キャッツアイ」とグループの音楽が結びついています。同年には5人が出演する映画「ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY」も公開されました。個人の演技経験と、5人で作品をつくる活動の両方が、デビュー後も続いたことがわかります。また、最初の楽曲はその場限りの紹介曲ではなく、周年公演などで原点を振り返る曲になりました。2019年には「A-RA-SHI:Reborn」として再構成され、異なるアレンジでも届けられています。デビュー当時に生まれた曲が、後の表現を試す素材にもなったのです。嵐のデビューの意味は、初登場の記録だけにありません。共通の名義、共通のレパートリー、5人で経験を重ねる場を持ち、その土台から音楽と映像の活動を広げられるようになったことにあります。

まとめ|嵐のデビューまでの歩みを振り返ろう

嵐のデビューまでの道のりには、家族を通じた音楽との出会い、先輩への関心、履歴書の送付、レッスンや出演経験など、異なる入口がありました。ジュニア時代には舞台、ドラマ、映画、番組で経験を積みましたが、全員が同じ進路を考えていたわけではありません。別の仕事に関心を持つメンバーもいる中で5人が集まり、1999年に嵐としての活動が始まりました。デビューへ直接つながったのは、グループの結成だけでなく、ワールドカップバレーボールに関わる仕事と、5人が歌う楽曲の制作です。会見、歌番組、ドラマ、CD発売が重なり、視聴者が名前と顔、音楽を結びつけられる形で登場しました。その後は新曲、単独コンサート、アルバム、冠番組へと活動が広がり、デビュー曲も原点を振り返る作品として歌い継がれています。嵐の始まりを知るには、華やかな会見や売上だけでなく、それ以前の経験と当時の気持ちにも目を向けることが大切です。「A・RA・SHI」や初期の映像作品を改めて見聴きすると、個々の歩みが一つのグループへ変わっていった時期の表現を味わえます。デビューはゴールであると同時に、5人が共通の作品と時間を積み重ねる出発点でもあったのです。

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