BAD HOPのデビューまでの道のり|活動開始のきっかけ・転機を解説

出典:FNMNL

BAD HOPのデビューまでの道のり|活動開始のきっかけ・転機を解説

BAD HOPのデビューまでの道のりは、川崎の仲間が音楽に出会い、自分たちの経験を作品に変えていった過程です。高校生RAP選手権での活躍が知られていますが、グループの出発には、兄弟で歌詞を交換した時間や自主制作、無料の音源公開、CD配布、ライブなど、さまざまな積み重ねがありました。この記事では、活動開始前から2017年の初の全国流通アルバム『Mobb Life』とその直後までを中心に、音楽への関心が本格的な活動へ変わった経緯を掘り下げます。初期作品の発表と全国流通という節目を区別し、どの経験が制作や発信の方法を変え、デビューにつながったのかを整理することで、BAD HOPの原点をわかりやすく解説します

BAD HOPの活動開始前の経歴

BAD HOPの活動開始前には、音楽を作るために集められる以前から存在していた、川崎での仲間の関係があります。中心となったT-PablowとYZERRは双子で、メンバーの多くは地元で育った幼なじみでした。保育園や幼稚園のころからのつながりもあり、後にグループを作る人々は、まず日常を共有する友人だったのです。川崎区の池上町など、工業地帯に近い地域の風景は、生い立ちを語る際に登場します。後の歌詞で使われる地名や仲間への意識は、この生活の積み重ねに根ざしていました。また、学校の環境に違和感を覚えたことや、身近な場所に居場所を求めた感覚も、YZERRが自分たちの背景を説明する際に語っています。学校や家庭だけでは説明しきれない人間関係が、音楽の共同作業へ進む前からあったということです。ただし、メンバーの境遇は一様ではなく、全員の生い立ちをひとつの物語にまとめることはできません。川崎で語られる厳しい経験も、市全体の暮らしを代表するものではありません。BAD HOPの原点を理解するには、街への固定観念ではなく、本人たちが語る具体的な経験と関係に目を向ける必要があります。

活動を始める前の視野を広げる経験として、T-Pablowは15歳のときの渡米を挙げています。アメリカにいる親族に呼ばれ、ニューヨークなどの景色を見たことで、自分も何かをやりたいと感じたと振り返りました。毎日同じ場所で過ごすだけでは得られなかった刺激が、将来を考える契機になっています。この経験を、渡航しただけでラッパーになることが決まった出来事と捉えるのは適切ではありません。確認できるのは、別の土地へ出ることで、それまで見えていなかった可能性を意識したという点です。一方で、後の8人全員が、幼少期から同じ環境で育ったわけではありません。東京出身のVingoは、別の音楽活動を通じて後からグループへ加わります。BAD HOPの土台は地元の関係でしたが、その後の活動には新しい出会いも重なりました。活動開始前の経歴から見えるのは、身近な仲間との強い結び付きと、外の世界を知ろうとする動きの両方です。このふたつを押さえると、地元の経験を音楽にしながら、そこで完結せずに作品を広く届けようとした姿勢を理解できます。グループの原点は、将来の成功を前提にした企画ではなく、生活の中で築かれた関係と、進路を探す時間の中にありました。

BAD HOPが音楽に興味を持ったきっかけ

BAD HOPが音楽に興味を持ったきっかけは、グループ全員に共通するひとつの曲や出来事ではありません。具体的な入口として語られているのが、YZERRとZeebraの音楽との出会いです。YZERRは小学4年生ごろ、地元のTSUTAYAでライブDVDのジャケットを見たことを振り返っています。髪を編み込んだ姿に興味を持ち、見た目を格好いいと感じたことから、音楽を聴くようになりました。最初に引かれたのは、歌詞の意味や高度なラップ技術だけでなく、服装や髪形を含むラッパーの姿でした。音楽と外見、振る舞いが一緒に伝わることが、ヒップホップを知る入口になったのです。その後は名古屋や横浜のヒップホップにも関心を広げています。最初から海外の音楽を中心に聴いていたわけではなく、日本のラッパーを通じて好みを育てていった流れがあります。身近な言語でラップする人の存在は、自分たちにも表現できるものとして音楽を捉える手がかりになりました。後にBAD HOPが日本語で地元の経験を語る背景には、この早い時期の接点もあります。

海外の音楽へ関心が広がるうえでは、兄がさまざまな曲を聴かせてくれたことも大きな要素でした。YZERRは、海外のラッパーではT.I.を最初に格好いいと感じたと話しています。若く、洗練された姿に興味を持ち、アトランタを含むアメリカ南部のヒップホップから影響を受けました。日本のラッパーへの憧れに、海外の音や表現への関心が重なっていったのです。ただし、海外の音楽を聴いたことだけで、後の作風がすべて決まったわけではありません。YZERRはZeebraに加え、OZROSAURUS、般若、ANARCHY、AK-69などの存在にも言及しています。スタイルが違っても、自分の立場や経験を率直に示すラッパーへの関心がありました。この影響は、流行する音を取り入れることと、自分の言葉で語ることを両立する姿勢につながります。ヒップホップへの興味は、好きな曲を増やすだけでなく、どのような人物として音楽を届けたいかを考える材料にもなっていました。BAD HOPの原点を知る際は、特定の海外ジャンルだけに注目するより、日本のラッパーから受けた刺激と、兄を通じて広がった聴取経験を合わせて捉えるとよいでしょう。聴く音楽の幅が広がる中で、次に自分たちの声を使うためのイメージが育っていきました。

BAD HOPが活動を始めたきっかけ

音楽を聴くことから実際の活動へ移った過程には、自分の言葉を書き、身近な人とやり取りする経験がありました。YZERRは中学2年生のころ、兄やT-Pablowと手紙でリリックを交換していたと語っています。リリックとは楽曲の歌詞を指します。ノートに言葉を書き、それを送り合い、良い表現について互いに反応していました。これは、完成した曲を大勢に届ける以前に、自分の言葉を誰かに聴いてもらう練習を重ねていたことを示します。最初から録音機材や整ったスタジオが活動の中心だったわけではなく、書くことと、その言葉を受け取る人の存在が出発点になっています。兄弟で歌詞を交換する関係は、ひとりで憧れを抱くだけでは生まれない、創作への継続的な接点でした。YZERRは、この時期にリリックの書き方を学んだと説明しています。音楽を聴いて格好いいと感じる段階から、自分も言葉を作れると考える段階へ、関心が具体的な行動に変わっていきました。活動開始を考えるうえでは、テレビ出演や作品発売より前の、この小さな創作のやり取りが重要です。

書いた言葉を人前で試す機会も生まれます。YZERRは15歳ごろ、身近な年上の人物が開くクラブイベントでステージに立ち、ラップした経験を話しています。紙の上で考えていた言葉を、ビートに合わせて声にすることで、創作とパフォーマンスがつながりました。活動の始まりは、ひとりで歌詞を書くことだけでは完結せず、音を流す人、ステージへ促す人、聴く人との関係の中で進んでいたのです。また、メンバーが活動へ向かったタイミングや理由はそれぞれ異なります。G-k.i.dは、T-Pablowからの言葉がラップを始めるきっかけになったことを語っています。仲間のひとりが音楽を始め、その動きが別の仲間へ伝わる形もありました。BAD HOPは、完成した音楽家だけを集めて作られたグループではなく、近しい人が互いに働きかけながら表現に参加した集団です。個人の関心が兄弟や友人の関係を通じて共有され、後に共同で作品を発表する準備になりました。この段階で大切なのは、まだ全国流通のアルバムや大規模ライブが活動の実績として存在していなかったことです。書く、交換する、声にするという経験を積み、自分たちも表現を担えるという実感を得ることが、本格的な活動へ進む足場になっていました。

BAD HOPのデビュー前の活動

BAD HOPは2014年に初期作品『BAD HOP ERA』を自主制作し、グループ名義での発信を本格化させました。ここでいう活動開始は、知らない人が一度に集められた瞬間ではなく、すでに関係のあった仲間が共通の名前で音楽を届ける形を整えた時期です。ミックステープという作品形式を使い、自分たちのラップをまとめて聴けるものにしたことで、身近な人とのやり取りから、外部のリスナーへ向けた発信へ進みました。2014年5月にグループを初めて取材したライターの記録でも、この作品を作って間もない時期だったことが確認できます。地元の生活や自分たちの背景を音楽にする姿勢がありました。同年にはT-PablowとYZERRが2WINとしても活動を始めています。双子のユニットと、地元の仲間を含むBAD HOPは別の名義であり、片方の実績をそのままもう片方のデビューとして扱うことはできません。複数の活動が並行していたことを押さえると、双子への注目と、クルーとして作品を作る動きを区別できます。

2015年にはアルバム『BAD HOP』を発表しました。したがって、初の全国流通アルバムが出る以前にも、グループとしての録音作品は存在しています。デビューまでの道のりを説明する際は、最初の作品発表と、流通の範囲が広がる時期を分けることが必要です。また、初期の活動にはメンバーの出会いと合流もありました。Vingoは東京でTokyo Young Visionの活動をしていた際、渋谷のライブの場でYZERRたちと知り合っています。当初は自分のグループの運営について相談し、その後、川崎で交流を深めてBAD HOPへ加入しました。音楽を続ける仲間としての相性や、活動の進め方を話す関係が、合流につながっていたのです。後に解散まで活動した8人の構成は、T-Pablow、YZERR、Tiji Jojo、Benjazzy、Yellow Pato、G-k.i.d、Vingo、Barkです。ただし、初期の作品や紹介には、この構成とは異なる名前も見られます。最初から完成形が決まっていたのではなく、音楽を作り、ライブを行い、人と出会いながら形を整えていました。自主制作の時期は、大きなデビューを待つだけの準備期間ではありません。すでに作品を世に出し、その反応や仲間との関係を通じて、次の活動の進め方を学ぶ実践の時間でした。

BAD HOPが経験した大きな転機

BAD HOPが経験した大きな転機のひとつは、中心メンバーのラップが、地元の外で知られるようになったことです。T-Pablowは2012年の『BAZOOKA!!! 高校生RAP選手権』第1回にK-九名義で出場し、優勝しました。2013年の第4回ではT-Pablow名義で再び優勝し、2014年の第5回ではYZERRが優勝しています。双子がそれぞれ大会で結果を残したことで、本人たちを知る人が、直接会える範囲を超えて増えました。T-Pablowは当時を振り返り、音楽で生きる道が開け、活動へ集中しようとしたと語っています。大会は技術を示す場所であると同時に、ラップを継続的な活動として考える契機になりました。ただし、大会の優勝を、そのままBAD HOPのデビューと呼ぶことはできません。個人が即興のバトルで注目されることと、仲間と曲を作り、ひとつの作品として届けることは異なる課題です。得られた注目をグループの音楽へつなげるには、聴く人が実際の楽曲やメンバーに触れられる入口を用意する必要がありました。大会での実績は、その後の活動を始める足がかりとして位置付けられます。

2015年には、異なる形の発信が重なりました。T-Pablowが『フリースタイルダンジョン』に初代モンスターとして出演し、テレビを通じてラップを知る人との接点が生まれます。一方、同年11月にはVICE JAPANのドキュメンタリー「MADE IN KAWASAKI」が公開され、グループの日常や地元の風景が映像で伝えられました。テレビのバトルでは、短い時間で相手に言葉を返すT-Pablowの姿が見られますが、ドキュメンタリーでは仲間との関係や生活の場所にも目が向けられています。ふたつの発信は同じ内容を繰り返すものではなく、個人のパフォーマンスとグループの背景を、それぞれ異なる入口から伝えました。YZERRも当時を振り返り、ドキュメンタリーやテレビ出演の時期に、活動への反応が変わったことを語っています。この転機は、ひとつの番組に出たことで作品が自動的に売れるようになった、という単純な話ではありません。名前を知った人が音源へ進み、曲を聴いた人が背景を知るという複数の接点ができたことが重要です。人物への関心と作品への関心を行き来できる状況が整い、次に音楽そのものを広く届ける試みを進める土台になりました。

BAD HOPがデビューにつながったきっかけ

全国流通アルバムにつながる直接的な準備となったのが、2016年の無料公開と無料配布です。3月には『BAD HOP 1 DAY』をネット上で無料ダウンロードできる作品として発表し、9月には『BAD HOP ALL DAY』のCDを無料で配布しました。YZERRは、この方法を最初から計画し、まず名前を知ってもらうことを目指していたと説明しています。同時に、人からお金を受け取れる品質の作品を作れているという自信が十分ではなかったことも話しています。無料で届ける方針には、発信の工夫と、当時の制作への自己評価の両方がありました。CDはレコード店やアパレルショップなどに置かれ、メンバー自身が直接納品することもありました。地元の古着店や渋谷のレコード店で配布された際の反応についても、ラジオで語っています。SNSで告知し、実際の店舗へ作品を届ける方法は、ネット上で名前を知った人に、音楽を手にする具体的な場所を示すものでした。聴くために代金が必要な作品だけでなく、まず音楽に触れてもらえる入口を作ったことが、活動を広げる準備になっています。

この時期には、収録曲「Life Style」のミュージックビデオもYouTubeで広がりました。さらに無料のワンマンライブを企画し、音源を聴いた人が、実際のステージを見る機会へつなげています。2016年の川崎のCLUB CITTA'での公演について、Tiji Jojoは会場を埋める観客を見て、注目されていると実感したと振り返りました。作品を聴いたという声が届くようになったことも、次のアルバムを作る動機になっています。ここで変わったのは、知ってもらう方法だけではなく、制作に向かう姿勢でした。YZERRは地方の会場で良い反応を得たことや、地元の人が応援するようになったことを挙げ、お金を払って聴いてもらうなら、自分たちが胸を張れる作品にする必要を感じたと話しています。無料で音楽を届けた経験が、有料の作品を出すための責任感につながったのです。デビューにつながったきっかけは、誰かが一度声をかけた出来事だけではありません。音源、映像、店舗、ライブを通じて反応を受け取り、その反応に作品の品質で応えようとした変化にあります。外から得た注目と、内側で育った制作への意識が重なり、初の全国流通作品を作る条件が整いました。

BAD HOPのデビュー当時の活動

2017年9月6日、BAD HOPはセカンドフルアルバム『Mobb Life』を発売しました。初の全国流通アルバムとなったこの作品を、本記事ではデビューまでの道のりにおける節目として扱っています。それ以前の作品発表がなくなるわけではなく、届ける範囲と、作品への向き合い方が変わった時期という意味です。アルバムは全16曲で、「Ocean View」「Asian Doll」「Black Bandana」「Gucci Scarf」「口だけ」「これ以外」などを収録しました。曲ごとに参加メンバーが異なり、8人の声をさまざまな組み合わせで聴けます。制作では、YZERRが全体の雰囲気を考え、足りない種類の曲を加えるように構成を整えたと説明しています。メンバーが持ち寄った曲を無条件に並べるのではなく、アルバム全体として何を見せるかを考えていました。タイトルも複数の候補を出して決められ、仲間と集まる自分たちらしさに合う名前として選ばれています。全国流通への移行は、販売する場所を増やすだけではなく、グループの音楽をまとまった作品として提示する段階でもありました。

曲作りの進め方にも、共同制作の特徴が見られます。YZERRは、まずメンバーで曲のトピックを多数出し、内容を絞ってからトラックを選ぶと語っています。歌詞だけでなく、どのようなメロディが合うか、誰が歌うとよいかも相談していました。近しい仲間であることは、互いの表現を率直に評価できる関係にもつながっています。Tiji Jojoは、歌詞への厳しい反応を受け、書き直しを重ねた経験を話しています。作品には、身近な仲間と作る親しさと、完成度を上げるために意見を交わす緊張感の両方がありました。また、YZERRはアルバムでは曲の良さだけでなく、最初から最後までの流れを重視していると説明しています。終盤の「これ以外」についても、自分たちの思いや居場所への感覚を込めた曲として語りました。発売後、『Mobb Life』はiTunesの総合アルバムチャートで1位を獲得し、その後は「Mobb Life Tour」を行っています。初めて全国流通する作品を出すことと、その音楽を各地で直接届けることがつながりました。デビュー当時の活動は、作品を発売した日だけで完結せず、制作で整えたグループの表現を、リスナーのいる会場へ持ち出すところまで広がっていました。

BAD HOPのデビューがその後の活動に与えた影響

初の全国流通作品を出した経験は、その後のBAD HOPが、音源とライブを一緒に考える活動へ進む土台になりました。それまでの無料公開や配布では、まず聴いてもらう機会を作ることが大きな課題でした。作品を有料で届ける段階では、内容への責任と、聴き手の期待に応える意識がより明確になっています。その変化は、曲の構成を整えるだけでなく、音楽をどのような場で体験してもらうかを考えることにもつながりました。2018年4月にはZepp Tokyoでワンマンライブ「BAD HOP HOUSE」を開催し、その後、同名のEPを発表しています。さらに同年11月13日には日本武道館で「Breath of South」を開催し、約8,000人を動員しました。メンバーはステージ構成や映像も自分たちのチームで考えており、作品の世界観を会場で形にする経験を重ねています。全国流通の成功だけで大きな会場への道が決まったと断定することはできませんが、作品とツアーを通じてリスナーとの接点を広げた後に、単独公演の規模を拡大したという流れは確認できます。

もうひとつの影響は、初期に身に付けた、自分たちで発信と制作を進める方法が、その後も活動の軸になったことです。無料CDを届ける場所を考え、映像を公開し、曲を作る際に仲間で意見を交わした経験は、役割を外部へすべて任せる形とは異なる運営の基礎でした。YZERRは後年、活動のペースや判断を自分たちで決められることが、大規模なライブに取り組むうえでも重要だったと説明しています。ただし、セルフプロデュースは外部の音楽家と協力しないことではありません。2019年にはロサンゼルスでEP『Lift Off』を制作し、海外のプロデューサーと協働しました。この企画はライブを見たApple Musicとの接点から実現したと語られ、ステージの表現が新しい制作の機会へつながった例になっています。BAD HOPは最終的に、2024年2月19日の東京ドーム公演をもって解散しました。後年の大規模公演を知ったうえで初期を振り返ると、出発点から成功が約束されていたようにも見えます。しかし、デビュー以前には品質への迷いがあり、届け方を工夫し、反応を受けて制作の意識を変える過程がありました。その経験が、活動の規模が変わった後も、自分たちの作品と見せ方を考える姿勢につながっていたのです。

まとめ|BAD HOPのデビューまでの歩みを振り返ろう

BAD HOPのデビューまでの歩みは、音楽への憧れが、仲間との創作と発信へ変わっていく過程です。日本のラッパーとの出会いから聴く音楽を広げ、歌詞を交換し、人前でラップする経験を重ねました。2014年以降は自主制作作品を発表し、大会やテレビ、ドキュメンタリーによって、個人とグループの両方を知ってもらう接点が生まれています。そこに無料の音源公開やCD配布、ライブが重なり、聴き手の反応が次の作品への動機になりました。2017年の『Mobb Life』は初の全国流通アルバムであり、活動を初めて行った作品とは区別する必要があります。重要なのは、流通の拡大とともに、代金を払って聴く人へ応えるため、制作の細部やアルバム全体の構成を見直したことです。その姿勢は、後のライブ演出や海外の制作陣との協働にもつながりました。初期の曲から順に聴くと、発信の工夫だけでなく、作品への向き合い方が変わる様子も見えてきます。BAD HOPの原点を知ることは、成功した後の経歴を覚えるだけでなく、仲間との関係、試行錯誤、聴き手との接点が、どのように本格的な活動を支えたのかを理解することでもあります。

BAD HOPの関連記事